こちらと世界の入出力

 生きていればいいことあるよ、みたいなの、まじくそ、と思ってどんより生きてきたけれど、ここにきて急に気が軽いのである。感覚の鈍麻、大衆への服従、なんかそんなもんかもしれんけれども、さまざまなことが「まあそれはそれとして私は私だし」と、ナイキのCMをマイルドにしたようなことを思って靴紐を結び直しては歩き始められている。ふしぎ。

 

 死にたい青少年にむけたことば、なんていう話ではないけれど、やっぱり歳をとると丸くなる、というか、さまざまな刺激や、自分のうちなる波、みたいなんも、最初は目の前にどーんでどうしていいかわからんし飲まれて流されてやんなって、そんな感じでジェットコースター情緒不安定を生きざるをえないけれども、しばらくしていくうちに、感性だって麻痺してくるし、なんかまあ波にしたって「ああこれね、こないだよりちょっと低いわね」と前年比を比較したりもできる。なんにせよいままで死んでいないのだからいまのところ多少の波にはそう簡単に動じたりする必要がないのである。

 

 みたいなことは、若いころの自分からするとださい堕落、なんだけど、何事も経験であって、この感覚を知らんだろう、君、みたいな気持ちで、こうやってひとはおっさんやおばさんになっていくのだ。きっと。

 

 運動をしていることが実はとてもいいのかもしれない。リングフィットアドベンチャーのおかげで人生史上いちばん運動をしている一年なのだ。酔っても以前ほど引きずらなくなったし、頭はいぜんずっとぼんやりだけれども、なんというか、快活。血が巡ってる感じ、する。運動と加齢のコラボによる精神的安寧。すばらしいではないか。

 

 知り合いに元youtuberがいて、なあんとなくyoutube的なものからは距離をおいていたけれど、やはり手を動かす人はえらい。どの時間に投稿するのがいいのか、どのテーマで、どうやって編集すれば、長さは……と、トライアンドエラーを繰り返していた話をとても興味深く聞いた。試行錯誤、そしてこれがマーケティングというやつのはじめの一歩なのかも。自分には欠けているなあ、と。

 

 自分から外界に対してインプットをし、それに対してレスポンスがある。それを入出力を繰り返し、望む出力を得る。こういう経験を自分はしたことがないかもしれない。

 

 まず、望むこと。望むレスポンスを明確にすること。

 次に、インプットをすること、結果を観察し、因果関係を考えること。

 それから、他の人のインプット・出力もよく観察すること、真似をすること。

 

 学ぶ、っていっても、脳内にデータベースを構築するだけではどこにもいけないし(趣味としてはたのしいが)、英語のようなスキルもそこに載せるものがなければただの記号である。やはり目的意識をもって手を動かし、望むレスポンスを得ること、を目指すべきなんで、あろうな。

 

 さて、何を望もうか。

猫を撫でる、進捗はない

 単発の「したいこと」をつぶしていくのは、それはそれで億劫だけれども、なんとかなるのである。問題は継続的なもの、技術であったり姿勢であったり、そういう日々の積み重ねなのである。

 

 脳がいつも詰まっている気がして、頭が働かない。働かない、働かない、と毎日行っているのであるから、頭が働いたことなど実はなく、というか、この詰まった状態が通常なのであって、つまりは低いIQにいい加減慣れなさいよ、という話なのかもしれない。酒を飲んだ翌日は如実に詰まりがあって、決断がなにもできずにスーパーの商品棚の前でぼんやりしていることなどがあります。でも、酒をやめたところでそんな変わんなかったもんな。

 

 一番どうにかしなければならいのが仕事である。いまの仕事のまま、もう少し最低ラインはクリアせえや、というのと、そもそも仕事を変えないとまずい、というの。しかし人生自己嫌悪を一貫した私には、クラスで二人組組んで、というときから誰も受け入れてくれないと思ってただただじっとすることしかできなかった私には、転職活動はあまりに難しい。家族でも学校でも職場でも特に必要とされていない人間が、どこかの企業から必要とされる可能性は。

 

 じゃあ必要とされる人間になりなさいよ、という話で、それでなれるのであれば人類みなもっとハッピーなのである。

 

 いつも鼻の下まで水がせり上がっているような気がしている。とにかくいまをやりすごそうと、一人の時間はスマホの漫画や短調なゲームで自己嫌悪や疲労を塗り潰し、日中はとにかくみんなから注目されないように、しかし周到に先を読んで準備するほどの心の余裕はなく、常に目の前のトラブルを目の前で対処している。何も決められない。

 

 心の可塑性が生まれつきどうもとても悪く、何かあってそれをクリアしたときに、「自分はこんなことできるんだ!」と素直に受け入れるひとは成長などもあるのであろうが、私はクリアというかとにかくそれをやり過ごすことしか考えていないから終わり次第元いた殻に閉じこもる。考えていることが小学校低学年からほとんど変わっていない。

 

 覚悟、というか、自分の人生を自分で引き受ける、というのが寛容なのであろうなあ、とは思ってはいるが、どうにもこうにもピンとこない。この人生が、自分のものであるということが。ほんとうに100%私の裁量で、私が100%責任を負えるほど、なんかさせてくれたっけ、この人生、とぼんやりしている間に大人になり、気がつけばみんなまっとうに成長して自分の裁量で自分の人生を生きている。序盤で判断や裁量の練習を積めなかった場合はどうしたらいいの。じっと手を見る。いま100%私の裁量で好きにできたら、真っ先に捨てるな、こんな人生。まじ死骸だって適当に燃えるゴミの日に出して墓すらも残して頂かなくていいし、痕跡も何もかも消してから消えたい。

 

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 きょうも墓を散歩した。北海道開拓始祖、と掘られている墓が、東京の墓地にある。球形の石が地面に埋まっているような、半球の石が置いてあるだけの墓がある。文字は掘られていない。薄い石の板を割って短冊状のようなしたものを地面に突き立てている墓もある。異常に大きくて見上げるような薄い石の板。台風の際に倒れたりはしないのだろうか。

 

 友達が家のテレビ台を特注していて驚いた。無印のベッドを置いて満足し、そのほかに特に家具を買うことなく、雑多なものが床に散らばっている私と違い、彼には家のデザインに明確なヴィジョンがあり、テレビ台すらも既製品では彼の希望にそぐわず、自分でデザインをしたのである。彼のような人が、ああいう墓地に個性的な墓を立てるのであろうか。コントロール欲の強い人は仕事もできる気がする。意志の力も違う。

 

 常に日和見的に生きてきたから、自分で誰かに意見をしたりすることがほとんどない。特にしたいこともないし、世界に対して「こうあるべき」ということもないから、「こうです」といわれたら、「そうなのですか」と、ただこまったりしてしまう。自分が知らないことでも「それはちがう、こまるのだ」というところから、交渉がはじまるらしい、ということまでは気がついたが、「ちがう、こまる」ということに、だいたい話が終わった1時間後くらいに気づく。

 

 墓地には有名な現代詩のひととその妻の墓があり、その墓までは辿りつかなかったが、その案内にしたがって歩く途中で黒猫がいた。腰を落としてみると慣れた猫で、積極的にズボンに頭や尻を擦り付け、「ここを撫でろ」というような動きをする。尾の付け根を撫でていると、思いの外硬くて驚いた。気持ちがいいらしく、仰向けになって腹をこちらに向ける。動物にはだいたい警戒されるので、ここまで無防備だと不安になってくる。この猫は何かの病気なのではないか。寄生虫に寄生されていて、人間を媒介とすべく、本人の意思に反してヒトに近づくようにコントロールされているのではないか。そこまでいかなくとも、おびただしいノミ・ダニに感染していて、それで全身が痒いだけなのではないか。ズボンに身体を擦り付ける仕草は、それらの虫をこすりつけていたのでないか。とはいえ無愛想なままごろごろと地面に寝そべる猫はかわいく、しばらく撫でてから、長い間水で手を洗った。今日は家に帰るや否や服を脱ぎ洗濯、体の洗浄をするであろう。

 

 

描写1

 思えばいつも自分を恥じている。自分を恥じる、の内訳には、自分の属性だけではなく、自分の所属を恥じる、も含まれており、それは自分と所属を同じくするひとには失礼な話である。が、とにかく恥じている。

 

 誇り、というのはきっと人生を生きるうえではとても大事なものなのだろうと思った。アメリカの映画を見ていると、親が子どもに、I'm proud of you、なんてことをいう。自分の大切なひとに誇りに思われる、彼彼女には誇りの種が植えられるのであろう。誇りを持ったひとは恥を避ける、避ける、というのは逃げるとかそういうことではなく、自分が誇りに思える選択をとる、ということ。自分が誇りに思える共同体に所属すること、その中で認め合うこと。これはきっと、良い人生であろう。

 

 話は戻り私はいつも自分を恥じている。恥じている私のする行動はすべて恥ずかしいものなので、ひとから「なんでこういうことするの?」といわれるたびに恥ずかしい気持ちになり口ごもる。人生が恥なのだもの。

 

 この「説明の出来なさ」もまた恥に拍車をかけているのではないか、ということを思った。自分で自分の行動に根拠を持つこと。「好きだから」でもいいから根拠を人に説明できるようにすること。いちど根拠を決めたらいちいちそれを恥じずにとりあえず開き直ること。根拠を持つ、というのはけっこう、いいことのような気がする。

 

 恥じている自分は恥じているあいだ自分のことばかりを考えている。ぐるぐると自分の内面を注視し、それをどうするわけでもなくうろうろと反芻し恥じ続けている。これもよくない。視線は外に向かわせた方がよさそうだ、という気がしている。

 

 「描写をする」ということは、その意味ではとても良いことなのではないかと思った。外を観察すること、私情を交えずにそれを書き/描きとること。本当は自分の内面だって外のように観察すべきなのだろうけれど、自分には恥が多すぎて難しい。

 

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 近所におおきな墓地がある。空がひろい場所はそこくらいしかないから、特に知己の墓があるわけではないが、晴れた日の夕方などにはよくそこにいく。近代日本文学における重要な人物の墓石などもあり、特に思い入れはないが、その前でお祈りをする分には不審さはないので、ときどき立ち止まり目を瞑って手を合わせる。空がひろい空間は、音の反響の問題なのか、目を瞑っていても空間のひろさを感じる。体にあたる風を意識する。少し高いところで木々の葉がすれあう音が聞こえる。鳥の鳴き声も聞こえるが、自分には種類などはわからない。南無阿弥陀仏、ととりあえず脳内で唱え、なんとなくそこここに眠っている砕かれた骨たちの安寧を祈る。地面の上に足で立ち、丸い地球に突っ立っているところを想像し、その上の茫漠とした空を感じる。どこから青いのか、厚みもわからない空に思いを馳せて、それらはまた別の日にアイスランドで見た空とつながっているのである。アイスランドはきっと夜で、誰にも見られることもない間欠泉は、やはり夜も数分おきに吹き上がっている。吹き上がる直前、一瞬水が穴にが引き、また盛り上がるその瞬間の盛り上がりの縁のまるいお湯は透き通った青で、それが白いしぶきとなって高く吹き上がる。夜ではその色もわからないだろう。何度か低い吹き上がりがあって、みんなが慣れてきたころに一段と高い噴出がある。

 

 ところでその日本近代文学の重鎮のお墓の2個ほど隣には、おそらくその墓地でも最も小さい墓がある。おそらくは高額な費用のかかる墓地で、彼らの遺骨置き場は基本的にどれも立派だ。御殿のようなものがあったり、誰も聞いていないニューヨークなどの言葉が踊る履歴まで掘り込まれている墓もある。その中で、その小さなお墓は、樹の影の下の1平方メートルくらいの広さの中に、土台も何もなく、ただ小さな石の柱が立っており、そこに家名が掘られている。花を置く場所もない。その高さ70センチくらい、10センチ×10センチくらいの石柱の他はただの砂地である。そのお墓がどうにも好きで、近代日本文学の重鎮さんにお祈りしたあと、あたりに人がいないことを確認して、少しだけそこにもお参りする。

腐るのを待つばかり

 結局起きている間のほとんどは嫌いか不得意かしかない地獄のような仕事をしているわけだから、一日の空いている時間をつなぎ合わせてそれが「ほら6時間も空いている時間があるではないか」などと言われても自己嫌悪や焦燥感や混乱に塗れてスマホまとめサイト読んだりしている間に終わるのである。仕事は害悪。ただただ心が辛いだけで終わる日々。どんなに100癒しても毎日マイナス6万くらいの赤字が出ているわけです。心の健康の。

 

 生きている間、もちろん浮き沈みはあるけれど、ずっとベースに感じている、人生に対する感想としては「もう許して」以外には特にない。なんでこんなにつらいのか。ずっと混乱の中を生きており、あらゆる世界との連絡はうまくいかず、社会の一員として入り込む割れ目も見つからず、へらへらと普通のふりをして一日が終わる。ずっと脳がどんよりもわっとした中に過剰な情報と過剰なToDoの嵐が吹き荒れ、どうしていいかわからずに立ち尽くす数秒の間には自己嫌悪の澱みが足元から湧き上がってきて脳を披露させる。いつもがっかりした大人たちの顔があった。

 

 許されたい、助けてほしい、もう放っておいてほしい、何もしたくない。頭を掴まれてアスファルトですりおろされていくような日々、日常のサンドバッグになってそれをどうするのかも次どうするのかも考えられない日々、ときどきくる凪があったとしてもそれは逃避にしか使えない。ずっと眠い。生きている間ずっと寝ていたい。

 

 それなりに得意なことも、良い点も私にはあるのかもしれないけれど、それらは、社会で、人の間で生きていくのに役に立つものだけをおそろしく器用に避けて存在している。「役に立たないけどいいやつだね」というほどいいやつではなく、むしろ嫌なやつで、その自分を開き直るほどの強さは持たず、人付き合いが苦手な分世界に対する独特の視座があり芸術的才能が、というな道はもちろんなく、すべての素敵からは遠く、壊れた脳は延々と同じ失敗や怨恨を繰り返し才能するのがとっても得意。

 

 人類はさまざまにばらばらな分布した特徴を持って生まれ、そのなかでその時代その地域の状況に適した特徴をたまたま持ったひとたちが素敵に生きていけているという中で、「大外れでもないけどなんだかちょっとうまいことちょうどいまここにはいらないやつばっかりだね、ざんねんだったね、またこんど」っていうことらしくて、今回の人生はもうそういうことなので、「またこんど」に期待をしながらとりあえず重力と時間に従って腐るのを待つばかり。

仕事なんかしてる場合じゃない日々

 遅ればせながら投資とやらをはじめてみたら、投資信託はまあともかく、株の方は買ったら即座にかなりの幅で下がり始めてて草。乱高下しているみたいなのでしばらく寝かす。

 

 iPhone12が出たら買うであろう、10月には大きな出費が2度あるであろう、年末にはコロナの状況にもよるけれど海外に行きたい、となると、いまの生活スタイルでは単純に赤字である。

 

 部屋、身体、語学。だいたいいつも言ってることは同じなのである。それになんか、ひとつくらいは創造的な、生産的な、趣味もあるといいかな、というくらい。あと、余暇として映画、小説、旅行、温泉。ビール飲んで翌日16時まで寝たりしている場合ではない、といいつつコロナ明けからはまた同じようなサイクルに戻っている。かろうじてリングフィットアドベンチャーによりやや健康的な生活を営めている、程度(これは結構大きなことだけど)。

 

 仕事が始まると途端に英語とかの勉強ができない。完全に趣味のドイツ語なんて持ってのほか、コロナ期のまったり生活で覚えた表現なども露と消えた。

 

 収入源は転職でもしない限り増えないから、節約をするしかない、けれど、土日の行動を変えるのもやだ、ということで、とりあえずは平日を切り詰める。

 

 とにかくなんか書く、と思ってPCに向かったけれど、あの、なんか、もうちょっと、あるでしょうに、という感じ。やはり仕事なんかしてる場合ではないのである。

進歩のない日々

 6月は低調である。コロナ明けのまだ自粛ボケの残ったままの仕事もほどほどに、連日のように飲み歩き、極め付けの土曜日の飲みすぎボンバー。体調が悪い日曜日を過ごした。

 

 飲むのをいったん、止める。冷蔵庫に酒が大量に入っているのでそれはなんらかで飲む。友達を呼ぶなどして飲む。追加購入は行わないものとする。

 

 部屋を整える。ベッドシーツを買う。ゴミを捨てる。玄関を掃除する。必要な収納を考える。人を呼べる部屋にする。自炊をできる部屋にする。

 

 運動。リングフィット以外の筋トレを行う。そのためにはそのスペースを作る必要がある。

 

 英語。発信と単語を強化する。人に何かを説明する練習。

 ドイツ語。日常会話を話せるようにする。年末年始のチケットを押さえる。

 

 ビールを飲む以外のたのしみを見つける。

 

 いつも同じことをいって、できていないのだけれど、繰り返し言っていればいつか一つくらいは細かくタスク化して実行するであろう。きっと。たぶん。いつか。

社会生活のリハビリ

 成長ってのは、なんというか、自分の「普通」のレベルが上がること、というか、なんかそんな気がしており、ある種のひとってのは、大変なことがあって、それが終わったあとに、それを自分にとっての今後の「普通」として処理するのかなぁ、などと思ったのである。

 

 自分なんかは、ちょっとした段差でもすぐ「無理!!」ってなって水面から鼻だけだして呼吸して、それが終わったら「ふう♡」とすぐまた元いた低いところに戻ってきて茶でもすすり始めてしまうのだが、「これは自分には無理!」とかいちいち騒がずに、「これが今後の自分の普通なんだな」として処理できるひとは、たぶんその後も成長したまんまでいられる。しらんけど。

 

 能力的なことはもちろん大前提としてあるけど、それはもう言い出したら私はんなもんほぼ全部生まれつきだと思ってるので、いまは心のありようの話をしている。

 

 「これが今後の自分の普通」と思う人は、それが今後もくることを予期して、例えば失敗から学ぶとか、二回目のためにノウハウを整理するとか、きっとまあ、そういうことをしてんだろうな。そうなるとまあ、結局スキル的な問題なのかな。自分はほんとに成長しねえなあ。自分を律する、みたいなことなのかな。その前に自分のしたいことしてないと成長もクソもねえきもするしな。「したいこと」って、漠然としすぎているしな。「したいこと」の日常には「したくないこと」もたくさんあるみたいな話をやたらしたがる人っていますよね。余談。

 

 ところで自分は「足踏み」は上手だと思っていて、つまり一度やると決めて動き出したら、あとは何も考えずにやり方を改善するなどということもなく同じことの回数をただ増やしていくだけの作業系、これはわりと継続してできる。社会人にはそんなものほとんど求められていないのがたまにキズ(大怪我)。

 

 なんというか、常に考えて、手を動かし続けるとか、「あそこの棚があんまり活用されていないからみんなで片付けよう」とか、そんなの思いもしないものね。日常で。自分の部屋さえどうしていいかわからない乱雑をそのまま暮らしているというのに。なんであんなに意思に満ち満ちているのだろう彼らは。こちとら洗濯してゴミ捨てて(これもすでにできてないときある)出勤してくらいでもう完全に息切れの日常なのに。

 

 ま、いいや。

 

 今週はリングフィットを3回、けんすいを2回。お金がないから食を減らしていたが、やはり動いて食べないと体に悪そうなので後半はよく食べた。やせることは後から考える。また飲んじゃ寝生活に戻っており、コロナで覚えた静かな日々を「新たな生活様式」として自分に落とし込んでいく必要があると思った次第。自分の生活を大事にすること。住み心地の良い部屋に住むこと。消費に振り回されすぎないこと。

 

 仕事は相変わらず下手だしできないが、英語が絡む大きめのプロジェクトに関わることになりそう。これはがんばる(漠然

 

 それにしたって、ちょっと一週間毎日出勤となっただけで、こんなに心削られる、この社会っつか会社っつか、労働っつか、なんか、すげえなぁ。こころをおろし金にかけているような毎日ですよ。

 

 来週は引き続きリングフィット2〜3回、けんすい2〜3回、ドイツ語単語、英単語。ここまで足踏みである。仕事が大変なのでそっちにいろいろ取られそうなことを覚悟してあまり私生活の目標は立てない。知り合いに自分から連絡する。IKEAにいく。部屋を片付ける(永遠の課題)。なんというか、空間的時間的なことを思い描けない脳の障害でもあるのだろうか。スパンを持った意思を全く思い描けない。なんか、人生、一つでええから、ないんかね。

 

 ま、いいや。