描写1

 思えばいつも自分を恥じている。自分を恥じる、の内訳には、自分の属性だけではなく、自分の所属を恥じる、も含まれており、それは自分と所属を同じくするひとには失礼な話である。が、とにかく恥じている。

 

 誇り、というのはきっと人生を生きるうえではとても大事なものなのだろうと思った。アメリカの映画を見ていると、親が子どもに、I'm proud of you、なんてことをいう。自分の大切なひとに誇りに思われる、彼彼女には誇りの種が植えられるのであろう。誇りを持ったひとは恥を避ける、避ける、というのは逃げるとかそういうことではなく、自分が誇りに思える選択をとる、ということ。自分が誇りに思える共同体に所属すること、その中で認め合うこと。これはきっと、良い人生であろう。

 

 話は戻り私はいつも自分を恥じている。恥じている私のする行動はすべて恥ずかしいものなので、ひとから「なんでこういうことするの?」といわれるたびに恥ずかしい気持ちになり口ごもる。人生が恥なのだもの。

 

 この「説明の出来なさ」もまた恥に拍車をかけているのではないか、ということを思った。自分で自分の行動に根拠を持つこと。「好きだから」でもいいから根拠を人に説明できるようにすること。いちど根拠を決めたらいちいちそれを恥じずにとりあえず開き直ること。根拠を持つ、というのはけっこう、いいことのような気がする。

 

 恥じている自分は恥じているあいだ自分のことばかりを考えている。ぐるぐると自分の内面を注視し、それをどうするわけでもなくうろうろと反芻し恥じ続けている。これもよくない。視線は外に向かわせた方がよさそうだ、という気がしている。

 

 「描写をする」ということは、その意味ではとても良いことなのではないかと思った。外を観察すること、私情を交えずにそれを書き/描きとること。本当は自分の内面だって外のように観察すべきなのだろうけれど、自分には恥が多すぎて難しい。

 

----------------------

 

 近所におおきな墓地がある。空がひろい場所はそこくらいしかないから、特に知己の墓があるわけではないが、晴れた日の夕方などにはよくそこにいく。近代日本文学における重要な人物の墓石などもあり、特に思い入れはないが、その前でお祈りをする分には不審さはないので、ときどき立ち止まり目を瞑って手を合わせる。空がひろい空間は、音の反響の問題なのか、目を瞑っていても空間のひろさを感じる。体にあたる風を意識する。少し高いところで木々の葉がすれあう音が聞こえる。鳥の鳴き声も聞こえるが、自分には種類などはわからない。南無阿弥陀仏、ととりあえず脳内で唱え、なんとなくそこここに眠っている砕かれた骨たちの安寧を祈る。地面の上に足で立ち、丸い地球に突っ立っているところを想像し、その上の茫漠とした空を感じる。どこから青いのか、厚みもわからない空に思いを馳せて、それらはまた別の日にアイスランドで見た空とつながっているのである。アイスランドはきっと夜で、誰にも見られることもない間欠泉は、やはり夜も数分おきに吹き上がっている。吹き上がる直前、一瞬水が穴にが引き、また盛り上がるその瞬間の盛り上がりの縁のまるいお湯は透き通った青で、それが白いしぶきとなって高く吹き上がる。夜ではその色もわからないだろう。何度か低い吹き上がりがあって、みんなが慣れてきたころに一段と高い噴出がある。

 

 ところでその日本近代文学の重鎮のお墓の2個ほど隣には、おそらくその墓地でも最も小さい墓がある。おそらくは高額な費用のかかる墓地で、彼らの遺骨置き場は基本的にどれも立派だ。御殿のようなものがあったり、誰も聞いていないニューヨークなどの言葉が踊る履歴まで掘り込まれている墓もある。その中で、その小さなお墓は、樹の影の下の1平方メートルくらいの広さの中に、土台も何もなく、ただ小さな石の柱が立っており、そこに家名が掘られている。花を置く場所もない。その高さ70センチくらい、10センチ×10センチくらいの石柱の他はただの砂地である。そのお墓がどうにも好きで、近代日本文学の重鎮さんにお祈りしたあと、あたりに人がいないことを確認して、少しだけそこにもお参りする。