世界はどこまでも対象なのであって

 あ、もう死にたい、消えたい、とか思って、去年の10月、いまから考えるとただ単に一時的に脳内物質がおかしくなってのどうのこうの、ということやと思うのだけれどとかく世界は真っ暗で、なんらもやる気は起きず、会社を休むなどということすら思い浮かばず、朝から重い身体を動かして会社に行くもほぼ一日中、練炭やその他の致死量などのことをだらだらと無機質に調べ安全な死に方を調べ続け工程表を練り、食欲もわかずとにかく眠く頭は痛く、本当に視野も狭くなるのだね、山手線の目黒駅を十円玉くらいの視界で歩いていたことを思い出します。

 

 結局たしか二三週間くらいそんな時期があって、その朝も電車に乗って狭い視界から窓の外を見ていて、住宅街、草、虫、あじさいの葉っぱなんかがたぶんあって、朝、あ、自分とこの世界には、なんの連絡もないのだな、と心の底のあたりですとんと感じた。

 

 それは、自分がどうなろうと世界は自分とは関係なくまわってゆくのだ、的なニヒリズムとはまたちょっと違ってて、自分があって、世界があって、それとこれとはぜんぜん関係がなくて、その関係はきっと自分の側から働きかけることで作っていくしかないのだな、というような、書いてみると至極あたりまえのことではあるのだけど。

 

 結局、そのときに強く感じた、ぽんと空間に放り出されたような、突きはなされた自由みたいな感覚を機に、少しずつ世界との関係は健全なものとなり、私は気持ちが回復していったのですが、そのときに、昔どこかで読んだのを思い出して、急いで買った池澤夏樹の「スティル・ライフ」、ようやく冒頭の意味が強い実感を持って理解できたのでした。

 

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 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

 

 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
 たとえば、星を見るとかして。

 

 二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
 水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
 星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。 
 星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

                       『スティル・ライフ』(池澤夏樹
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 たぶんあのとき自分が気づいたのは、世界は、世界のありようというのは、自分の周りを取り囲んで自分を圧迫、浸蝕、規定するものではなく、自分の外にあって、自分と対等に、というか、少し離れたところに存在するものであって、この、内側にある世界と、外側にある世界は、ぜんぜん、違うもの、それぞれ独立しており、少なくともこの内側にある世界は、自分で手綱を握っている限りにおいて、自分のものなのだ、という実感だったのだろうと思う。

 

 この、世界は対象である、世界と関係性を切り結んでゆくのである、という感覚、捉え方は、特に落ち込んでいるときには意外と大事なような気がしているのですけれども、さて、どうなのでしょうね。