あの子と遊んじゃいけません

 馬鹿を想定して書く、という癖が、いつの間にかネット上でよく見かける振る舞いになっているような気が、している。インターネット常時接続社会以前ではどうだったのか、とか、別に検証をしたわけではないけれど。

 

 いろんな意見を書く、思いつく、そのときに、脳内には同時に世間の声も聞こえている。特にネットが当たり前になってからというもの、誰でも発信が簡単になり、ツイッターにもなれば発信のための精神的労力的コストも下がり、ふと思いついたことを簡単に書き込めるようになった。でも誰しもが創造的な前向きな生産的なことを言えるわけでもないのだから、簡単にローコストで発信できるのはひとへの批判や、批判とまでは行かなくても誰かの意見に対してちょっと反対、あたしそれはどうかと思う、的なことが自然と多くなる(たぶん)。そしてひとはとにかく少ないコストで発信をしたいだけで、批判する対象の文意を読み込むなんてことをいちいちしないので、それらはたいがいがいちゃもんに近いものになる。とりあえずここでは彼らを馬鹿と呼ぶ。おそらくある程度有名なひとの元にはこういった馬鹿からの反論みたいなものがたくさん届いているのであろうと思う。それらの声に囲まれる。で、次に何かを書くときにはそれらの声があらかじめ聞こえるようになる。で、それに対する反論を書いてしまう。「こんなことを言うと、すぐ〜とか言ってくる人がいそうだけれど」とかいうような。

 

 そういった不毛なやりとりを一般のひとも見ているものだから、一般のひとが何かを言いたい時も、すぐにこういった「馬鹿からの反論」が脳内にちらつく。あーこういうこと言われそうだな。こういうの言ってくるやついそうだな。

 

 馬鹿を想定する、ということが生む問題は、多い。その馬鹿への反論に費やされる文字数、その出力のための時間、それを読むための時間、すべて基本的には無駄だし、そういったものは地味に脳内のリソースを食っていて、気づかない間に脳のパフォーマンスはきっと落ちている。

 

 何よりも問題なのは、こういう振る舞いを気づかないうちに繰り返していく中で、いつの間にか自分にも馬鹿の思考がインストールされてしまうことである。誰かの何かの意見を聞いた時に、「うわ、これ馬鹿からこう言われるんじゃないの?」とか、反射的に、思ってしまう。で、思わず(なんてったって発信はローコストでできるのだから)それを口にしてしまう。「そんなこと言ってたらこんなこと言われちゃいますよ」がいつの間にか、「そんなこと言ってたらこうじゃないですか?」になり、「それはこうだと思いますけど」となればめでたく馬鹿の仲間入りである。

 

 そこまで行かなくても、自然と馬鹿の思考をトレースしてしまうことによる自分や社会へのダメージはきっと大きい。抑圧的、相互監視的、窮屈。たぶんいいことは何もない。無自覚だからこそいつの間にか内側を蝕んでいる。

 

 ある時期から、こういった振る舞いが、糸井重里とか、内田樹とか、わりと有名な、好きなひとの文章にも見られるようになった気がしていて、それはなんだか、すこし残念な気持ちになっているのだよ。頭のいいひとにこそ、思ったことは思ったことで、えい、って感じで、わき目も振らずに発信してほしい。

 

 っていう、まあ、こうやって実名を挙げて書いてしまうのも、結局、批判っぽい感じになってしまうし、思ったことは、きっと胸の中にしまって、自分の中で粛々と実行していくが、吉。