さいごまでここに残るひと

 さいきんちょっとした別れがあり、別れってのはおおげさであり、結ぶほどの関係もなく数ヶ月間ゆるやかに絡まった糸が異動とかそういう社会的なアレで解けただけのことであって、さらにいうと相手はいたってノーダメージ、またね、なんて言われて、それだけでこっちは嬉しい、みたいな。乙女か。

 

 しかし、またねって、そんなに嬉しかったのは、関係に先があるからで、とにかく自分はどういう形であれ、その人と繋がっていたい、関係性というものがそこにありたい、と思っていたわけであって、しかもどうやらなんなら別に「その人」固有の問題ではなくて、私はいろんな人たちに、いま自分が好きなひとたちに対しても、自分はこどもみたいに、まだ「ずっと」に縋っていることに気づいてしまったのだった。

 

 ダンシャリズムの人からすると捨てないと新たにものを置く余地がないじゃない? みたいなことなのだろうけれどもさ、正しいのだけれどもさ、でも、死ぬまでに、死ぬときに私は何を考えるのだろう、そのときに私は何を持っているのだろう、物は別にいいけど、関係性として。死ぬ間際はどこまでも一人で、運良く周りにたくさんの人が集って看取ってくれたとして目を閉じればそこから離陸まではひとり、その時に思い出す出来事や、顔や身体と、私はその瞬間にどれだけの関係を持っているのだろう。全部、過去のことだったりすると、もうここにはないものばかりを思い出しているのだとすると、それはなんか、悲しいじゃない。

 

 さいきん、「消費」と「生産」について考えていて、それは「たのしい」と「うれしい」に対応するようなことであって、これまで何かを消費するばかりであった私は、これからは何かを生産したい。単発ではなく、積み上げて行きたい。重ねて行きたい。そういうことも関係しているのかも。この「ずっと」への執着のようなものは。

 

 しかし人生経験もさしてない三十路が、そうやって年甲斐もなくひとにのめり込んでみて、ずっと、とか、それにまつわるあれこれを考えることになって、そのときに、あ、ずっと、ここにいるのは、自分しかいないのだね、ということをようやく実感した。腑に落ちた。

 

 どんなに何を願っても、最後まで、ずっと、ここ、にいるのは自分だけで、それ以外のものごとは接したり交わったりして流れてゆくばかり、その長さ深さ濃さはそれぞれだけれど、ぜんぶ最後には自分から離れてしまう、あるいは、自分が離れてしまう。なんか、悲しいね。

 

 それで、今回の気づき(一応、自己啓発の体を)。

 

  1. ずっとここにいるのは自分だけなのだから、まずは自分をちゃんとしよう
  2. 全ての関わり交わりはとてもいちいちかけがえがないので大切にしよう
  3. 長期的な深い関係を持てたらその人より先に死のう

 

 以上。学びと気づきばかりだね、人生。