主体性問題

 主体性、というのが、人生でとても重要な気がしている。自分で決めること、自分の嗜好を肯定し、それに基づいた行動をすること。自分の人生を自分で生きること。

 あたりまえやん?と思われるかもしれないが、この程度には結構なグラデーションがあって、とても自分の人生を生きている人、と、自分の人生なんか幼少期に奪われてしまったままでいまもそのまま惰性で生きている人、と、その間の人たち、というのは、結構、とりたてて意識されないまま、なんとなくみなその割り当てられた人生を生きているように思う。知らんけど。

 こういうのって、居酒屋のトイレに貼られた「自分の人生は、自分のものでしかないんだなぁ。よつを」とか、そういうもんで目覚めるようなもんでもなく、「主体的に生きるべし」「そうなのか!」で変わるもんでもなく、意識もされないまま、自分の発言、行動、思考、それらの元となる体感、に伏流のように通奏低音のように流れ続けているものであって、一度インストールされてしまったそれは、なかなか根底から差し替えることが難しいのであるよなぁ。あるんだよ。

 

 私はもうちょっと自由に生きたい、と思いながら、しかし私の生き方はどこまでも非・主体的であり、こういうのって、生まれ持った自我の強さみたいなものもあるんじゃないかと思うけれども、私はそれも弱く、そのまま流されて生きてきた結果、結局いまも過去も直近の未来も、外圧によって予定が組まれていくし、いざスケジュールに空隙、凪、なんてものがあっても、スマホまとめサイト読んで一日が終わるわけで、そうこうしている間に外圧がぐわっときてハッとしてまた追い立てられる人生の始まり。追い立てられて初めて忙しさを嘆くのだけど、違うのだよ、きっと私が十分に主体的であれば、私はあの空隙に、凪に、何かをしていたはずなのだ。追い立てられなくて良いだけの何かを。

 

 主体性においてはきっと自我の強さが一番大事。求めよ、されば与えられん。というイエスさんのアレもそうだけれども、意志や意欲のないところには蜘蛛の糸だって垂らされない、というか、垂らされたってそれはただの何の意味もない蜘蛛の糸なのである。次に、空間的、時間的スペースを脳内に保持し、イメージする力、これも大事なのではないかと思う。そのスペースの中で、いくつかの変数を動かし、シミュレートする、先を読む、というだけのワーキングメモリ、これは、主体的人生にとってとても大事なのではないだろうか。

 

 決める、捨てる、計画する、目指す、達成する。成功体験を積み重ねねば成長もなさそう。その最初のステップが幼少期、とかいうのがベストなのだろうなぁ。いまさら出す一歩は、もう草も生い茂っていて足だってとても重くて。