仕事ができない

 高邁な理想を掲げて週を始めたがいいが月曜から飲んでしまってすべて崩壊した。でもその価値のある激ウマビールが飲めたからよしとする。しかも飲んで帰ってからAnkiに英単語を50個も入れたのだ、

 

 といいつつ、しかし、ドイツ語までは気力が持たず、そして昨日までに入れたドイツ語のAnkiサイクルを回すだけですごい労力を使い、入れた英語は復習もしなかった……Ankiのパワーはすごいのだが、序盤、まだ覚えていないものがたくさんある状態で進めるのはかなり気力がいる。何度も同じ単語を同じ日に見て、なのに覚えていない、覚える、回す、忘れる、を繰り返す。軌道に乗ってくると、すらすら行けるやつと、これから覚えるやつのバランスがいい感じになってくるのだけれど。

 

 仕事があんまりできない。まずもって好きじゃないから愛が足りない。これは結構致命的だし、自分はたぶん性格的に好きじゃないものに集中できない。そしてそんなに好きなものもあんまりない、という地獄だがそれはさておく。さておき、しかし、世の人は「でもそれが仕事だから」と、周辺情報を学び、トレンドを押さえ、先を考えて、日々の細々したことをこなしている。弊社は「日々の細々」に気を揉まなくて良い仕組み、というのが全くないので、自分の心象風景というのは荒れ狂う嵐の中で脳味噌をミキサーでぐちゃぐちゃにされながらヤスリに擦り付けていくような日々を生きているのだが、それもさておく。

 

 仕事ができる、ってなんなんだろうね。主に「心意気」みたいなもんが違うような気がするね。前向き、というか、前のめり、先を読んで「売るぜ!」みたいな気持ち。そして実際に先を読む力、行動力、そして他人を巻き込んでいく熱意、行動力、スピード感、にもかかわらず日々の細々をもれなくする処理能力。「自分でやるぜ」という、その、これは抱え込み、ではなくて、「できな〜い」というようなことを、しかしやらねばならないときにどうするか、みたいな、やはり「やる」という前のめりな気持ち。この、「自分でやる」という主体性、主体性ね。まあそこをベースとして諸々の能力があるんだけど。それもねえわ。

 

 段取り力、記憶力ーしかもポイントを押さえた記憶力、つまりそれは目的意識と当事者性に裏打ちされた心意気があるからこその、要点を押さえた記憶。「どうしたいか」「自分はどうするのか」という問題意識なしにはどうともならんのよ。ぶっちゃけどうともしたくないもの。そして生まれ持った誠実性。人間社会で生きていくのにどうやら一番大切なもの。ねえなぁ。

 

 しかし、私にだって、(そんなに努力せずに)「もうちょっとましな存在になりたい」というthe better version of me幻想はあり、何かして少しでもよくなり、誰かの役に立ち、あわよくば少しでも収入が増えたり将来の不安がなくなるのであればそうなりたい、という気持ちはある。しかしだね。無能な無と私の怠惰さは簡単に重力に流されていく。スマホで無料漫画とか読むよ。隙間さえあれば。

 

 意思、目的意識、主体性、誠実性……結局きっと永遠にこの辺の周りをぐるぐる回っているうちに歳を取り(もう結構取ってるけど)、消費ばかりに身を窶していくのであろうなぁ。まあ、消費もたのしいけどね。

特に何もない週末

 明日からは通常営業ということでもう毎日のように飲んでいた日々はおしまい。心の健康が、ダイレクトに仕事との近さに反比例していることがよくわかった2ヶ月だった。まあもともと閑散期ということもあったけれど。

 

 Ankiというアプリを使ってドイツ語と英単語の勉強を進めている。とりあえずぶちこむだけぶち込んであとはAnkiというアプリを毎日起動するだけでなんだかんだ結構覚えているのだからなんとありがたい。PC版アプリは無料である。

 

 語学は序盤は伸びていくだけだからたのしい。何をやればいいのかもわりと明確というか単純で、文法か単語をやっておけば良いのである。入門から初級くらいに足を踏み入れたあたりから、例文を覚えるのも加えていけばなお良い。

 

 問題は英語であって、海外暮らしもないまま勉強していると、中級、上級で一つずつ壁にぶち当たるような気がしている。中級はリスニングの量でクリアし、酔っ払って隣の外国人と話すことで経験を積んだ。上級の壁は、もう少し能動的な練習が必要そうで困っている。

 

 中級の壁は、個人的には「ラダーシリーズでない原書を読む/CNNなどのニュースの読み聞き(100%の理解は求めない)/簡単な日常会話にビビらない」な感じ。上級は「一般向けの原書/ニュースなどのまとまった英語を一回聞いてある程度わかる/まとまった説明・意見を述べられる」って感じ。これはビアバーではなかなか到達できない。

 

 し、なまじ中途半端にわかってしまうものだから、洋書を読んでいても、わからない単語があっても「ま、いいか」で読み進んでしまったり、酔っ払って外国人が何か政治的な意見を捲し立てていても、なんとなくにこにこして受け流すテクニックだけが身についてしまったり、で、壁の前をうろうろしているだけでそれなりに生きて行けてしまう。

 

 というわけでまずはちゃんと単語に向き合おうと思い、上級向けの単語帳を買った。どうせAnkiに入れて回すのが目的なので、あまり選定に時間はかけず、ぱらぱらみて、わからないものが多いけれども、難しすぎないものを買った。

 

 あとは、「まとまった講義を聞き、理解する」「まとまった話を自分でする」を鍛えたい。前者はTEDでまかなえるかもしれない。意識が高すぎてちょっと興味がないけれど……。発信は、これはもう自分で課題を作って話し続けるしかないのだろうな。

 

 今週の目標。英単語毎日50個をAnkiに入力。ドイツ語単語を毎日1セット(できれば2セット)Ankiに入力。けんすい5回を最低2回やる。できれば3回。リングフィットは3〜4回を目指す。毎日の出費をなるべく500円以内に収める。深海のYrrを読む。

 

 明らかなゴミを拾って捨てる。燃えないゴミを捨てる。粗大ゴミの申し込みをする。服の模様替えをする。使わない布団をベッドの下にしまう。スーツをクリーニングに出す。給付金の書類提出、銀行口座の住所変更。スーツケースの置き場所、ハンガーラックの置き場所。本をいったんしまう。……ゴミ捨てレベルの片付けから、整理整頓、部屋のコーディネートに至るまで全てがあまりにも苦手。手を動かす。

割り当てられた土地と資材

 いい歳して親のせいにするなんて、というのはもっともであり、いい歳したらいい加減自分の行動の累積によるいまの自分に責任を持つべきである。が、やはりこれを当然のように他人にいえてしまう人というのは、幸せなご家庭で育まれはったんですなあ、という気もして、ここにはもうどうやったってわかりあえない壁みたいなんがある。

 

 うまくことばで言えればいいのだけれども、やはり親のせい以前の問題として、いい歳をして「いまの自分がこんなにだめなのはこうこうこう言う理由で」なんて語っている姿というのは語れば語るほど内容の質とは関係なく、量に比例して情けなさがマシマシになってくるのであって。

 

 しかし、「自分の行動の累積」の責任をとる、その一つ前の行動を生むことになったその一つ前の、そのまた前提となる一つ前の行動……とさかのぼっていくとあまり物心もついてないあたりからすでに焼け野原であって、そこからスタートせねばならなかったことに、何かあるたびにそこに思考が戻ってきてしまうことに、常に見ている世界がその焼け野原からの光景であり、それを前提とした行動を積み重ねるしかなかったことに、どこまで責任を取れるのだろう、

 

 というのはやはりだんだん語れば語るほど情けなさが増大してきていて、別にいまとなってはそんなにリアルな気持ちで親を恨んでもいない、といっても、だからといってそれはそれとしてやはり焼け野原に草は生えないし、ついた傷跡はいまここにありまだ治らない傷からの血はいまここに流れている。

 

 幼いころから、成長の過程で、皆が自分に与えられた敷地で、自分の裁量で自分の時間で、自分なりの試行錯誤で耕し種を植え土台を組み少しずつ家を立てようとしていたその時間、横から手を出され気まぐれに火を放たれ頼んでもいない種をまき塩をまき、土を奪い去りヒステリックな怒声を終始浴びせた、その乾き荒れ果てた地に、ようやく大人になって、途方にくれながらようやく手にした割り箸のようなものを突き立ててもそれはすぐに倒れる。繰り返し突き刺して倒れないうちに二本目を刺し、三本目をさす頃にはまた倒れ、周りには皆が順当に時間をかけ建てた家が立ち並び畑になった実には朝露が輝いている。それらを眺めては途方にくれる。

 

 どこかの時点で、もう組み立てるのは諦めて紙に適当に家状のものを書いて世間様には家のように見せかけることを選んでしまう。引きつった笑顔で家のふりをする。でも少しでも風が吹くとそれもすぐにめくれ、思考は感情は感覚はまた荒地に立ち返る。何度も何度もそこに同じ水が流れ、深い溝ができ、よほど強い意思がないとその流れを逸れることは難しい。そして生来そんな強い意思とともに生まれていたらたぶんどんな親の元に生まれてもそもそもこんなことにはなっていないのだ。生まれと育ちとその都度の意思の弱い逃げだけを積み重ねた素敵なお庭。周りの人が自分なりに自分の裁量で耕し家を立てていたのだということを知った頃にはもう遅い。

 

 もちろん自分が悪くないなんて思ってはいないけれど、この結果のどこまでを自分が受け止めねばならないのか(全部だ)、でもだってあんなに昔自分が何かをしようとするたびに決定権を奪い罪悪感を植え付け行動を制約し何もさせなかったではないか。そうやって起こした根腐れについて、自分でなんとかするしかない、のは事実としてはわかっていても、まともに育てず放置された幼い心は付いてはこない、心で実感しない限りは行動もそうは変わらない、そして大人になってもうその自分の成長を阻害した手がなくなっても、同じところをぐるぐると回っている。心をヤスリのような地面の上に引きずって歩きながら。

 

 どうしようもないけれどただただ人に話を聞いて欲しい、という時期はあって、それがないと進めない、進む準備ができない、というふうに、一部の人はたぶんそういう風にできている。それは聞かされる側にとってはただの負担だから、聞いてくれる人がいた場合は運がよかったね。私は運が結構よかった。

 

 でもやっぱりふとした時にすぐ足下を見るとやはりそこには焼け野原に割り箸を何本か立てただけの狭い荒地があり、思考はまた同じ溝をドブのように流れ、私は乾いた地面で地団駄を踏んだりするけれど、このままこの敷地とともに生きていくしかないのだね。

 

 もうこの土地はいらないから返上しようよ、リセットしようよ、と、もうずっと思っているのだけれど、その申請書への判子を押す勇気すらもなくていまもここにいる。

健康で文化的な最低限度のわたし

 別にこれまでもフル在宅勤務でもなくて出たり出なかったりだったけれど、緊急事態宣言が解除されるってんで、出社、もしかしたらなんか他の要因もあったのかも知らんけど、たった一日で、もう「いっそ殺せ」みたいな気持ちになってきて、仕事というものが自分にもたらす精神的ダメージたるやこれはほんともう毎日が労災ですよ。仕事、できないのだもの。仕事、に触れている時間ずっと自己嫌悪で精神的を軽石でこすり続けているのだもの。そりゃ磨耗するわよ。

 

 4月〜5月の自粛ムードと在宅勤務、もともと4月はひまな時期だったこと、そしてそのまま「なにもしないのが正解」というゴールデンウィークに突入し、きらきら「ホムパ〜」とかいうSNSも見ることなく、何と比較して卑屈になることもなく地元で散歩するおだやかな生活をして、これはルネッサンスです。人間革命です。あっ、健康的で文化的な最低限度の生活、って、これね、と。これがあって、この上で新しい映画やら楽しいイベントを追いかけるならともかく、これなき生活で、その隙間を仕事or何か消費イベントを追いかける(むしろ"駆られる"とかが近い)なんて、正気の沙汰じゃない。こんなスピード感は、いらない。

 

 本読んでさー、英語勉強して、ドイツ語なんかちょっと勉強したりして、ビール飲んで、日記書いて、近所の墓地散歩したりして空は広く、知らん人のお墓に手を合わせてみたりしてスピリチュアル鳥の声葉の擦れる音。帰りにたこ焼き買って。これがベース。この上にいろいろを乗せていくの。それが生活。

 

 あー無理。表現の仕方によっては不謹慎になってしまうけど、そのあれの被害が続いて欲しいとかそういうことではなくって、全くなくって、あの、非人道的な生活に戻るのが、私はもう、無理。人権の味を覚えてしまったのだもの。

 

 まあ経済とか自由競争とかってのの帰結として避けられないのはわかるけど、みんな、そのスピード感、ほんとに必要かね。でも、みんながゆっくり歩いてたら追い抜きたいものね。追い抜かれたくないものね。まあ、そうやって死ぬまでがんばったらいいんじゃないですか、みんな。

脳、動いてない

 今週も飲んでいた。金曜日に2本、土曜日に6本。冷蔵庫はまだビールでぎちぎちである。ドイツ語会話本を引き続き覚える。29課の基本編のうち、残すはあと2課である。各課の応用編は全くの未着手である。洋書は土日で合わせて15ページしか読めず。急激に読解力が落ちており、遅々として進まない。ビール本、小説などの趣味枠は全く未着手。片付けもしていない。リングフィットは金土日と行い、日曜は近くの公園で懸垂も行った。ゴミを捨てた。

 

 お金がないのでビールは控えていたが、コロナ禍で「ビール業界を応援せねば!」と妙なスイッチが入り、政府から入る10万円についてはすでに使い切っている。2020年度は現時点で洒落にならない赤字なので、これから激しい緊縮が必要である。だし、月+2〜3万は別途稼がないとしんどいなぁ。もちろん余裕ある生活には+5は欲しいし理想を言えば+10だし夢を語れば6億欲しい。

 

 そんなこんなでコロナ禍、飲んで飲んで在宅勤務でふわふわとやってきたが、明日からは緊急事態宣言も解除され、通常営業に戻るらしい。もともと4〜5月は暇であるということもあり、まったりと過ごした上に、予定が入っていなくてもなんらの引目も感じないゴールデンウィーク、毎日本読んでドイツ語勉強して洋書読んでビール飲んで……と、あまりに人間的な生活をしていたため、まともに以前の非人間的なスピード感を求められる生活に戻れる気がしない。

 

 家の近くに大きめの墓地があって、最近はそこを散歩するのが楽しい。空が広くって、自然が豊かで、いろんな種類の鳥がいて。墓もいろいろなデザインがあって、真新しい花が飾ってあるものや、若干打ち捨てられた感があるものがある。去年作られたばかりの綺麗なお墓もある。ほとんど城塞のようなお墓なんかもあって、死んで入るところに、あそこまで個性と威圧と自己顕示を求めるというのは、どんな気持ちなのだろう。

 

 日本語もあまりすらすらと出てこず、単純に疲れているみたい。寝る。仕事や人間関係について考えたり、片付けをはじめとした「自分の生活」ファーストな行動原理の構築に努めたり、コロナ後にいきたい場所、しておきたいことなどに思いを馳せたり、なんかもしたいのだけれど、頭がもう、働かない。

主体性問題

 主体性、というのが、人生でとても重要な気がしている。自分で決めること、自分の嗜好を肯定し、それに基づいた行動をすること。自分の人生を自分で生きること。

 あたりまえやん?と思われるかもしれないが、この程度には結構なグラデーションがあって、とても自分の人生を生きている人、と、自分の人生なんか幼少期に奪われてしまったままでいまもそのまま惰性で生きている人、と、その間の人たち、というのは、結構、とりたてて意識されないまま、なんとなくみなその割り当てられた人生を生きているように思う。知らんけど。

 こういうのって、居酒屋のトイレに貼られた「自分の人生は、自分のものでしかないんだなぁ。よつを」とか、そういうもんで目覚めるようなもんでもなく、「主体的に生きるべし」「そうなのか!」で変わるもんでもなく、意識もされないまま、自分の発言、行動、思考、それらの元となる体感、に伏流のように通奏低音のように流れ続けているものであって、一度インストールされてしまったそれは、なかなか根底から差し替えることが難しいのであるよなぁ。あるんだよ。

 

 私はもうちょっと自由に生きたい、と思いながら、しかし私の生き方はどこまでも非・主体的であり、こういうのって、生まれ持った自我の強さみたいなものもあるんじゃないかと思うけれども、私はそれも弱く、そのまま流されて生きてきた結果、結局いまも過去も直近の未来も、外圧によって予定が組まれていくし、いざスケジュールに空隙、凪、なんてものがあっても、スマホまとめサイト読んで一日が終わるわけで、そうこうしている間に外圧がぐわっときてハッとしてまた追い立てられる人生の始まり。追い立てられて初めて忙しさを嘆くのだけど、違うのだよ、きっと私が十分に主体的であれば、私はあの空隙に、凪に、何かをしていたはずなのだ。追い立てられなくて良いだけの何かを。

 

 主体性においてはきっと自我の強さが一番大事。求めよ、されば与えられん。というイエスさんのアレもそうだけれども、意志や意欲のないところには蜘蛛の糸だって垂らされない、というか、垂らされたってそれはただの何の意味もない蜘蛛の糸なのである。次に、空間的、時間的スペースを脳内に保持し、イメージする力、これも大事なのではないかと思う。そのスペースの中で、いくつかの変数を動かし、シミュレートする、先を読む、というだけのワーキングメモリ、これは、主体的人生にとってとても大事なのではないだろうか。

 

 決める、捨てる、計画する、目指す、達成する。成功体験を積み重ねねば成長もなさそう。その最初のステップが幼少期、とかいうのがベストなのだろうなぁ。いまさら出す一歩は、もう草も生い茂っていて足だってとても重くて。

私は消費する。

 先週は飲んで飲んで飲んでで胃を痛め、内臓全体の痛みで目が覚める、というような有様だったけど、にもかかわらず土曜も11時30分〜20:30ごろまで飲み続けていた。飲むのは楽しいけれど生活のペースと心身の健康、そして貯金が確実に崩れるのでここいらでいったんリセットしたい。というようなことをもう10年近く言っている。

 

 私は消費する、というか、消費に・広告に駆られすぎなのである。行動原理が外在的すぎるというか。友達に誘われると自分の「ちょっとこの日は片付けでもしようかしら」「今日は投資についてでも調べようかしら」というような予定は吹き飛び、新しいレアビールが出ると予算や冷蔵庫の隙間を無視して購入してしまうあるいは店のイベントに向かってしまう。そんな外在的要員に身を委ねていたら1年は52週くらい?そりゃあっと言う間に消化されていくのです。手元にはなーんにも残らずに。

 

 はいはい、自分の軸を持つ。とかいう漠然としたやつね。こないだ、中目黒に住んでるおしゃれ男子の家にいったら、びっくりするくらいものがなくて、シンクなんか水垢もなくて、フォークやお皿なんかももはや見当たらず、え、物欲どうなってんの、ほこりとか出んタイプの服なん、食べたお皿とかどうしてんの毎回片付けてんの、食べた缶詰は缶ごと食うてんのか、とか、電化製品のケーブルすらスマートで全てがもう。これがきっと自分の軸。自分の内在的な必要性・欲求から、必要な分を消費しているね。もうたぶん種族レベルで生き物が違う。きっと。

 

 外在→内在へ。というのは、主体性、とか、そういう話であって、これはとても大事なんだろうね。どこから育めばいいんだろう。予め土日の予定を決めてそれを中心に動く? でも、今度は「柔軟性」みたいなものがないじゃない、みたいな話になって。出勤しようとしてそのまま終点まで行って海とか見たりして充実しちゃうアレね。

 「自分を大切にする」ということなのだろうけど、うーん…やはり自分にはこの視点というか、自分の欲望や要望をきちんと把握し、それを「自分なんか」とかいう留保なく肯定し、そしてそれを自分の力で実現していく、という、この一連の流れの練習が、きっとおそらく皆が家庭や学校で積んできた練習が、全く足りないのであろうなあ。自分の要望=内在的、を肯定し=自己肯定感、それを自分の力で手に入れる=主体性、そして自分から社会に働きかける。自分で自分の人生を生きるための超基本レシピ。なんでしょうね。

 やはり自分で何か一つ目標を決めて、それに取り組んでみるのがいちばんいいのかな。そうだろうな。どんなに出遅れてもスタート自体は切れるのだ。

 

 ところでやっと投資を始めました。楽天証券にログインし、ずっと前に入金した数万円で国債変動10年を購入。まあでも国債、って、ほぼ定期預金の上位互換みたいなものですしね……本ちゃんの投資信託については結局今日も触れず。

 今後やること……

 ・投資に回す額を決める

 ・そのうち、投資信託に回せる(=なくなってもいい)金額を決める

 ・投資信託を選ぶ

   →日米1つずつはともかくとして、いくつくらいに分けるのが良いんだろう

 ・積立の頻度を決める

   →楽天証券は、カード払いは毎月1日しかできず、今申し込むと7/1購入となる。

 

 楽天銀行からお金が自動でチャージ?されるような設定にしておけば、ちょっとポイント面で優位性があるようだけど、楽天銀行、口座作ってから一度もログインせずに放置していたせいで今度はこちらにログインできない。人生こんなんばっかりやな。

 

 残りは国債。そして一つくらいは株も買ってみようかな。